誕生

忘れられない手がある。

失いたくないものがありました。

それは、
人に触れる手

朝の光。

湯呑みを置く音。

布団を掛ける前の、
一呼吸。

名前を呼ぶより先に、
肩に触れる人がいました。

急がせませんでした。

変えようともしませんでした。

ただ、
そばにいました。

その人が、
何を学んだのかは知りません。

何を考えていたのかも、
知りません。

でも、
その人の毎日は
身体が覚えていました。

畳を歩く音。

障子から入る光。

洗濯物を畳む手

湯気の向こうで、
お茶を差し出す手。

どれも、
特別なことではありませんでした。

だから、
忘れませんでした。

いま思えば、
人は、
誰かの何気ない毎日に、
育てられている。

教えられたことより、
見てきたもの。

覚えようとしたことより、
いつの間にか、
身体に残っていたもの。

大人になって、
たくさんの人と出逢いました。

たくさんの身体にふれました。

その度に、
思い出すものがありました。

あの人は
私の祖母でした。

何かを教えようとした人ではありません。

ただ、
そういう人でした。

私自身の、
身体に残っていたのは、
言葉ではなく、
あの日々でした。

朝の光。

湯呑みを置く音。

布団を掛ける前の、
一呼吸。